ことばと猫と音楽と

英語を教える仕事をしています。猫が大好きですが、今は飼っていません。子どもの頃から大人になるまで、音楽を勉強しました。今も細々と学んでいます。食べることが大好き。

三角コーナーはいらないと思う

二十代の頃三年ほど外国で暮らしていたのを除いては、40近くで結婚するまでずっと実家暮らしをしていたので、(それは言い訳にすぎないけれど)家事はほとんどしてこなかったのです。仕事柄夜遅くまで男のように働き、クタクタで帰宅して母が用意してくれた晩ご飯を食べ、お風呂に入ったら1日が終わる、という日常を、10年以上続けていました。


食べることが好きなので、お料理はクックパッドのお世話になりながらだいぶ上達したと思いますが、掃除は得意ではありません。キッチンでいつも気がかりだったのが、排水溝の汚れと三角コーナーのカビ。特に三角コーナーは見える場所にあるので、どうして たら綺麗に保てるのか、悩んでいました。自分のキッチンを持つことになって、色々買い物しながら、自立するキッチン用ゴミ袋を発見。多少値段は張るものの、ポイと捨てられる手軽さには勝てない、としばらく使っていたのです。


が、


そんなのを買わなくても、毎日郵便受けに入っているチラシや、一度しか使わずに捨てるラップやホイルを取っておいて、キッチンに広げて生ゴミを包めば、大体の場合それで十分じゃないか。


なんてエコ!

なんて経済的!


というわけでどんどんよけいなものを削ぎ落としていって、いつかミニマリストになれるかもしれないと思い始めています。

出会いは繋がっていると思う話

 40年以上生きているので、これまで本当にたくさんの人と出会いました。人生は自分の思い通りにはいかないけれど、あとから振り返ってみると、「なるほど、そのために出会ったのね」と思うことがたくさんです。

 たとえば、大学生の時に密かに憧れていたイギリス人留学生のAくん。わたしは大学が斡旋する彼のチューター(といってもただの友達)になったので、会えるときは毎日学食でランチを食べ、週末もしょっちゅう遊びに行き、かなり親しくなっていました。彼は背が高くハンサムで、テクノとかブリットポップ?みたいな、わたしの知らない音楽をたくさん知っている人でした。

 今思うと彼はゲイで、わたしは彼にとってただの友達だったのだけど、わたしは彼に身がよじれるほどの片思いをしていました。ある日Aくんは私に、「アキ、イギリスに留学してよ。アキが来たら本当に楽しいと思う。」と言ったのです。わたしはそれはもう、プロポーズされたかのように有頂天になって、両親に相談しました。すると母がボソッと「あなたが勉強したいコダーイシステムを、勉強できるところがあるなら行なさい。」と。そこであくる日Aくんに相談したところ、「僕の母さんがロンドンのコダーイセンターで勉強しているから、行ったらいいよ。」と。

これは、これは運命に違いない、わたしはイギリスに留学して、コダーイも勉強して、Aくんのお母さんとも仲良くなって、ゴールインに違いない、国際結婚ロンドンライフなんだわ!と希望を胸に膨らませすぎながら、とうとうロンドンに留学することにしたのでした。

結論から言うと、ロンドンでは早々にAくんとうまくいかなくなり、(しかしAくんのお母さんはとても良い方で、親しくしてくださり)、最終的にわたしに残ったのは、そこで勉強した英語とコダーイシステムでした。ロンドンのコダーイセンターで勉強していた折、当時の先生から「アキならハンガリーコダーイを勉強して、コダーイシステムの先生になれるよ」と言われたことを鵜呑みにし、後にわたしはハンガリーへ旅立つことになったのです。

コダーイは、怪しい人ではない

大学を卒業した後、ハンガリーのケチケメート市というところにある、コダーイ研究所で2年学びました。「コダーイ研究所でディプロマを取りました」と言ったら、「それは、UFOを呼ぶ施設か何か?」と聞かれたことがあります。


違います。


ゾルターン・コダーイは、ハンガリーの作曲家、音楽教育家であり、そのメソッドは確か昨年世界無形文化遺産に登録されたのではなかったかしら。


コダーイメソッド、とよく呼ばれるけれど、それはむしろ精神とか哲学で、手短かに説明すると「自国のわらべ歌と民謡をつかって、小さな頃から段階的に音楽教育を行うことで、ひとりひとりに音楽的な根をつくり、そこからクラシック音楽や他国の音楽、現代の音楽へと広く音楽的なリテラシーを身につけさせることにより、人生を豊かに生きる力を養う」というもの。←手短かじゃないですね。


とどのつまりコダーイメソッドは、コダーイが音楽を通して実現したかった、内面が豊かな人たちが集まってできている、理想的な社会を目指す哲学なのだと思います。


だから、ピアノが上手いとか、高いソプラノボイスが出るとか、そういうことばかりではなくて、プロにならないアマチュアも、あるいは音楽家でもない普通の市井の人たちがみんな、音楽という心を豊かにするツールにアクセスするための手段を、公教育で提供しましょう、ということなのです。


そういう公教育が実現したら、日本は文化的に本当に豊かな国になるな、ピアニストばかりがひしめいているのではなくて、そのせっかく素晴らしい演奏を、楽しむ多くの聴衆が育つといいな、と思います。心から。

神社ミッションなるもの

前に心屋仁之助さんのブログなどで、神社ミッションなるものについて読んだのです。ひなびた神社へ一人で行って、何もお願いごとなどしないでただ賽銭箱に一万円札(あるいは、もっと大金とか)をこっそり入れると、それが何倍にもなって返ってくる、というの。


生まれて初めて婚活パーティーに行く日、ちょっと時間があったので近所の神社へ行って、一万円札入れましたよ。これから婚活パーティーでーす、みたいな感じで。別に運命の人と知り合えますように、とか、一つもお願いせずに。


その結果…


そのパーティーでカップル成立、そしてその人と結婚したのでした。結納金やら両家からのお祝いやら何やら、数百倍になって返ってきたんでした、そういえば。


神社ミッションなかなか良いです。


たまに行おうと思います。

(^-^)

結婚への道② 婚活パーティー

ホテルのビュッフェが第一目的で、ついでに良い人いるかしらね〜、いないわよね〜、きっと、と思いながら参加した初めての婚活パーティー。かなり大規模だったそのパーティーは、予想に反してかなりハードなものでした。なにせ2分毎に、何十人もの男の人がベルトコンベアー方式で次々回ってくるのです。最初こそひとりひとりじっくり吟味、とか思っていましたが、途中で疲れてわけがわからなくなってくる。


メモもほとんどどうでもよくなって、どんな人がいたか、今となってはあまり記憶にありません。ただ、中間のフリートークの時間(ここが唯一のお食事タイムでもあったのですが)に、強烈キャラのおじさまに捕まってしまい、好きなものが食べられなかった上、他の方たちとひとつも会話できなかったことは、大きな誤算でした。


フリートークが終わって自席に戻ると、中間結果表のようなものが、そっと置かれていました。つまり、何番さんと何番さんが私を良いと思っているか、私が良いと思った何番さんは私を何番目に良いと思っているか、あるいは思っていないか。


私が6番目に良いと思った方が私を1番に書いてくださったみたい。あとは、さっき捕まったおじさま。追いかけても上手くいかない恋ならしたことがある私は、いつもとパターンを変えて、相手に任せてみることにしました。消去法で、おじさまではない方の方の番号を書きました。少し年が離れているけれど、いい人そうに見えたもの。


パーティーの帰りにはひとりひとりに封筒が渡されました。もしカップルが成立していたら、その番号と、自分に興味をもった人からのメッセージと連絡先が入っています。期待せずに行ったはずなのに、なぜかドキドキしながら封筒を開けると、なんとカップル成立です!


生まれて初めて参加してみた婚活パーティーでまさかのカップル成立。そしてその後まさかその人と結婚することになろうとは。人生はわからないものですね。変な力が抜けていたのが良かったのかも。



結婚への道①

結婚はしないんじゃないかと、長い間思っていました。中学生の頃から強い結婚願望をもった、変な子どもだったのだけど。恋に恋するばっかりで、自分にはとうてい似合いそうもない人ばかりを好きになっては、たいていうまくいくはずもなく、いつの間にかそのまま大人になっていました。


25歳のときに付き合っていたハンガリー人の彼と生き別れ(私が帰国したため)になって、結局はっきりとお別れしないままフェードアウトしたので、その悲しみから立ち直るのに大事な時期の10年ほどを費やしてしまい(なんともったいないことか、と今になって思うけれど、後の祭りですね)、気づけば30代半ばを迎えてもまだ私は独りでした。


合コンにたくさん参加して、何人かの男性とお付き合いしてみたりしたのですが、結局途中で苦しくなって別れてしまう。38歳のときに、「わたしはもういい、1人で生きよう。」と決心して乗馬教室や、ボディメイクのレッスン、ひとりでホテルランチ、好きなだけ買い物も楽しんで、とうとう一人用の一軒家を建てようと、ハウスメーカーの方たちと相談を始めてしまいました。


自分のための、夢のお城。ピアノ室と自分のキッチンにウォークインクローゼット。家のことを考えるとワクワクして、これが正しい道なんだと感じていました。


そんなある土曜日のこと、私が休日出勤しようとメイクしていると、女友達からメールが。「今日四時から、婚活パーティーに行くよ。」普段だったら、時間ないな〜、とスルーしそうなものなのですが、その前日に私は美容室に行ったばかり。前の週末に新しいワンピースを買って、アイロンをかけたばかり、というナイスタイミング。「ホテルのビュッフェ付きだよ。」という友達のひとことが決め手となり、私も参加することにしました。





イギリス② ロンドン

ロンドンには一年いました。
地下鉄のラッセルスクエア駅の並びの、インターナショナルホールという大きな寮に暮らしました。少し離れたところに女子寮や、少し高級な寮もあったのですが、わたしは寮費が最も低額で、日本人があまりいなさそうで、いちばんワイルドな予感のする、そのホールに暮らすことを決めたのでした。

ホールには200人ぐらい(すごくざっくり)の学生がいたのかしら、イギリス人もいましたが、世界各地からの留学生もたくさん生活していました。

一階が受付と事務所、地下に食堂とバーとピアノ室、2回から上が居住スペースで、女子の階と男子の階が交互になっていました。私の部屋は220、イギリスでは一階をground floorと呼ぶので、実質三階ということになります。

インターナショナルホールでの生活はワイルドで、ナイーヴな私にはシゲキテキなものでした。キッチンにはシンクと電子レンジと電気ケトルしかなく、調理はほとんどできないのですが、ケトルでインスタント麺を茹でた跡が放置されていたり、フロアにひとつあるバスタブで、隣の部屋のフィンランド人の女の子が、イギリス人の彼氏とふたりで入浴していたり。地下にはバーがあって、毎晩学生がそこでビールやカクテルを飲んでいました。わたしもラガーをハーフパイント、とか、カールスバーグアイス、とか、ラムアンドコークなんかをカッコつけて飲んだりしていました。

夜に地下のピアノ室で練習を終えて、部屋を出ようとしたらドアの取っ手が外れて閉じ込められたこともありました。地下の反対側にあるバーに人がいる気配がしたので、ありったけの力でドンドンドアを叩いて、大声で何度もへーぅぷ!と叫びました。やがてだれか知らない男の人が気づいて、寮の受け付けの女の人を連れてきて、ふたりで救出してくれました。ドア越しには英語で話していたのでわかりませんでしたが、開けてみたらびっくり。助けてくれたのは日本人の学生でした。名前を聞いたら「スシ」って。外国で覚えてもらいやすいように、ニックネームだったのでしょうね。スシさんは、今どこで何をしているのかしら。

寮の受け付けの黒人やインド系のおじさんたちや、お掃除のアフリカ系のお姉さんたちともたくさん話しました。地下の食堂の小柄なおじさんは、いつも女の子たちをプリンセス、って呼んでくれたな。色々な国のたくさんの人たちに囲まれて過ごしたあの時間は、振り返ってみれば、本当に本当に貴重な時間だったことです。