ことばと猫と音楽と

英語を教える仕事をしています。猫が大好きですが、今は飼っていません。子どもの頃から大人になるまで、音楽を勉強しました。今も細々と学んでいます。食べることが大好き。

結婚への道② 婚活パーティー

ホテルのビュッフェが第一目的で、ついでに良い人いるかしらね〜、いないわよね〜、きっと、と思いながら参加した初めての婚活パーティー。かなり大規模だったそのパーティーは、予想に反してかなりハードなものでした。なにせ2分毎に、何十人もの男の人がベルトコンベアー方式で次々回ってくるのです。最初こそひとりひとりじっくり吟味、とか思っていましたが、途中で疲れてわけがわからなくなってくる。


メモもほとんどどうでもよくなって、どんな人がいたか、今となってはあまり記憶にありません。ただ、中間のフリートークの時間(ここが唯一のお食事タイムでもあったのですが)に、強烈キャラのおじさまに捕まってしまい、好きなものが食べられなかった上、他の方たちとひとつも会話できなかったことは、大きな誤算でした。


フリートークが終わって自席に戻ると、中間結果表のようなものが、そっと置かれていました。つまり、何番さんと何番さんが私を良いと思っているか、私が良いと思った何番さんは私を何番目に良いと思っているか、あるいは思っていないか。


私が6番目に良いと思った方が私を1番に書いてくださったみたい。あとは、さっき捕まったおじさま。追いかけても上手くいかない恋ならしたことがある私は、いつもとパターンを変えて、相手に任せてみることにしました。消去法で、おじさまではない方の方の番号を書きました。少し年が離れているけれど、いい人そうに見えたもの。


パーティーの帰りにはひとりひとりに封筒が渡されました。もしカップルが成立していたら、その番号と、自分に興味をもった人からのメッセージと連絡先が入っています。期待せずに行ったはずなのに、なぜかドキドキしながら封筒を開けると、なんとカップル成立です!


生まれて初めて参加してみた婚活パーティーでまさかのカップル成立。そしてその後まさかその人と結婚することになろうとは。人生はわからないものですね。変な力が抜けていたのが良かったのかも。



結婚への道①

結婚はしないんじゃないかと、長い間思っていました。中学生の頃から強い結婚願望をもった、変な子どもだったのだけど。恋に恋するばっかりで、自分にはとうてい似合いそうもない人ばかりを好きになっては、たいていうまくいくはずもなく、いつの間にかそのまま大人になっていました。


25歳のときに付き合っていたハンガリー人の彼と生き別れ(私が帰国したため)になって、結局はっきりとお別れしないままフェードアウトしたので、その悲しみから立ち直るのに大事な時期の10年ほどを費やしてしまい(なんともったいないことか、と今になって思うけれど、後の祭りですね)、気づけば30代半ばを迎えてもまだ私は独りでした。


合コンにたくさん参加して、何人かの男性とお付き合いしてみたりしたのですが、結局途中で苦しくなって別れてしまう。38歳のときに、「わたしはもういい、1人で生きよう。」と決心して乗馬教室や、ボディメイクのレッスン、ひとりでホテルランチ、好きなだけ買い物も楽しんで、とうとう一人用の一軒家を建てようと、ハウスメーカーの方たちと相談を始めてしまいました。


自分のための、夢のお城。ピアノ室と自分のキッチンにウォークインクローゼット。家のことを考えるとワクワクして、これが正しい道なんだと感じていました。


そんなある土曜日のこと、私が休日出勤しようとメイクしていると、女友達からメールが。「今日四時から、婚活パーティーに行くよ。」普段だったら、時間ないな〜、とスルーしそうなものなのですが、その前日に私は美容室に行ったばかり。前の週末に新しいワンピースを買って、アイロンをかけたばかり、というナイスタイミング。「ホテルのビュッフェ付きだよ。」という友達のひとことが決め手となり、私も参加することにしました。





イギリス② ロンドン

ロンドンには一年いました。
地下鉄のラッセルスクエア駅の並びの、インターナショナルホールという大きな寮に暮らしました。少し離れたところに女子寮や、少し高級な寮もあったのですが、わたしは寮費が最も低額で、日本人があまりいなさそうで、いちばんワイルドな予感のする、そのホールに暮らすことを決めたのでした。

ホールには200人ぐらい(すごくざっくり)の学生がいたのかしら、イギリス人もいましたが、世界各地からの留学生もたくさん生活していました。

一階が受付と事務所、地下に食堂とバーとピアノ室、2回から上が居住スペースで、女子の階と男子の階が交互になっていました。私の部屋は220、イギリスでは一階をground floorと呼ぶので、実質三階ということになります。

インターナショナルホールでの生活はワイルドで、ナイーヴな私にはシゲキテキなものでした。キッチンにはシンクと電子レンジと電気ケトルしかなく、調理はほとんどできないのですが、ケトルでインスタント麺を茹でた跡が放置されていたり、フロアにひとつあるバスタブで、隣の部屋のフィンランド人の女の子が、イギリス人の彼氏とふたりで入浴していたり。地下にはバーがあって、毎晩学生がそこでビールやカクテルを飲んでいました。わたしもラガーをハーフパイント、とか、カールスバーグアイス、とか、ラムアンドコークなんかをカッコつけて飲んだりしていました。

夜に地下のピアノ室で練習を終えて、部屋を出ようとしたらドアの取っ手が外れて閉じ込められたこともありました。地下の反対側にあるバーに人がいる気配がしたので、ありったけの力でドンドンドアを叩いて、大声で何度もへーぅぷ!と叫びました。やがてだれか知らない男の人が気づいて、寮の受け付けの女の人を連れてきて、ふたりで救出してくれました。ドア越しには英語で話していたのでわかりませんでしたが、開けてみたらびっくり。助けてくれたのは日本人の学生でした。名前を聞いたら「スシ」って。外国で覚えてもらいやすいように、ニックネームだったのでしょうね。スシさんは、今どこで何をしているのかしら。

寮の受け付けの黒人やインド系のおじさんたちや、お掃除のアフリカ系のお姉さんたちともたくさん話しました。地下の食堂の小柄なおじさんは、いつも女の子たちをプリンセス、って呼んでくれたな。色々な国のたくさんの人たちに囲まれて過ごしたあの時間は、振り返ってみれば、本当に本当に貴重な時間だったことです。

イギリス① ホームステイ

  大学四年生の年に、一年間大学を休学して、イギリスに留学しました。わたしの大学には当時ロンドンのとある大学と交換留学制度があり、その試験に通ったからです。交換留学なのになぜ休学なのかは、話が長くなるので省略しますが、わたしはイギリスで、英語と社会学の基礎を学びました。


 ロンドンで大学のコースが始まるまでの三週間、わたしはとある海辺の町でホームステイをしながら、語学学校に通いました。ホストファミリーはトニーとマーガレットという優しいイギリス人ご夫婦で、お友達と老人ホームなどを回って歌や楽器演奏のショーを行う、明るく気さくな方たちでした。夫妻はわたしの歌をとても気に入ってくださり、一緒にショーに出演させてくださったり、地元のタレントショーに出演させてくださったり(なんと優勝しました♪)、たくさんの良い思い出ができました。


 トニーとマーガレットはリタイアしたご夫婦で、語学学校へ通う外国人の学生をホストファミリーとして受け入れる他は、日々生活を楽しんでいました。ご夫妻にはひとり娘のアシュリーがいて、ポールという優しい旦那さんと近所に住んでいました。


 トニーとマーガレットのおかげで、わたしのイギリス生活の始まりはとても楽しいものとなり、イギリスの人たちの家庭生活を垣間見る、貴重な経験ができました。


 イギリスといえば紅茶、ですが、イギリス人は本当にたくさん、紅茶を飲みます。朝食はトーストとシリアル、紅茶。軽食にサンドイッチまたはチーズとビスケットと、紅茶。夕食のあとしばらくしたら、またチョコレートと紅茶など。イギリスでは軽い食事のことをteaと呼ぶこともあります。それくらい、紅茶が日常生活に浸透しています。イギリスにいる間はほとんどコーヒーは飲まず、紅茶を飲むことが習慣となりました。


 「紅茶」とは言いますが、日本で入れると赤いお茶も、イギリスでは真っ黒です。イギリスの水は硬水だからだと思うのですが、初めて見たときはとても驚きました。イギリスでは紅茶のことを、black teaと呼びます。なるほどです。


 イギリスでもう1つ驚いたことは、食器の洗い方です。ホストファミリーでは、食後の後片付けはトニーの仕事となっていたので、わたしも毎日お手伝いをしました。使った食器の入ったシンクにお湯を張り、濃い緑色の液体洗剤を入れて泡ぶくぶくにします。スポンジで食器をこすって汚れを落とし、乾いたディッシュクロスで食器を拭いて、食器棚に戻し、終了。なんと、洗剤の泡を水道水で洗い流したりせず、そのまま拭いて終わりなのです。使うときも、そのまま食品を載せたり、水を注いだりするので、毎日少しずつ、洗剤を食べたり飲んだりしていたと思います。


 そういえば、日本の大学に交換留学で来ていたイギリス人の友達も、食器をすすがずに水切りしていたっけ。「薄まっているから大丈夫」、と言っていて、ゾッとしたのを覚えていますが、そのおかげで、diluteという単語を覚えました。


 ホームステイは後にも先にもその一度だけの経験でしたが、今思い返してみると、本当に幸せな留学生活の始まりでした。朝起きてから眠るまで、家族の一員としてわたしを迎えてくださったトニーとマーガレットに、感謝の気持ちでいっぱいです。


 


 

 

 

うたのこと

 歌うことは子どもの頃から大好きでした。両親も歌うことが好きだったので、わたしはいつも歌に囲まれていたように思います。


 若かった両親が小さい私を抱いて、七つの子を歌ってくれたこと。フレーズの最後を面白く変奏して、私をゲラゲラ笑わせたこと。母の歌う子守唄。レコードから流れていた童謡やキャンディキャンディの歌。両親が好きだった歌番組に合わせて踊ったピンクレディ。初めておねだりして買ってもらったイモ欽トリオのレコード。弟が習っていた民謡。(幼い頃は良い声でした。)チャゲアスのものまね…。ジャンルは色々ですが、歌にまつわる思い出は、いくつもいくつも蘇ります。


 高校に入ると、大学は音楽科へ進学することを決めていました。はじめは、5歳から続けていたピアノを専攻しようと思っていましたが、元々素質がなかったのか、練習がしんどくなってきていたからか、高校2年の頃にはわたしのピアノの演奏は行き詰まってきてしまいました。


 声楽は高校1年生で習い始めました。週に一度の、隣町に住む先生のご自宅でのレッスンは本当に楽しかった。わたしが歌うといつも先生は、「ん〜。いいぞ〜。」と言ってくれました。ほめられて良い気分になって、声楽が大好きになりました。


 高校2年の時、当時のピアノの先生に、「声楽に専攻を変えたら?ピアノはあまり向いていないかも。」と言われました。それまで歌はわたしにとってあまりに身近な「遊び」だったので、まさか大学で歌を「勉強する」という選択肢があるとは、思いついていませんでした。大好きな遊びが勉強だなんて、最高じゃないか?専攻を声楽にすることにしました。


 それから歌はわたしの人生にとって、最高の遊びであるとともに、専門になりました。 元々何もしなくても良く出る声ではないので、歌手になることは叶いませんでしたが、大人になってからも、ソロや合唱でステージに立つこともあります。また、勤め先が中学校であるため、普段は英語を教えていますが、時々子どもたちに合唱や発声を指導する機会もあり、細く長く、歌うことができているなぁ、という感じです。カラオケも大好き。


 数年前から新たに先生に付いて、声楽を学び直しています。10年後ぐらいに、コンサートができるくらい歌が上達したらいいな、というのが、密かな野望。


 

ピアノのこと

  わたしが2歳の時にうちにアップライトピアノが来たそうです。ピアノが来た日のことをわたしは覚えていないので、ものごころついたときには、ピアノが家にあったことになります。


 初めて耳にしたピアノ曲は、母が練習していた「エリーゼのために」。たどたどしいけれど、何度も何度も弾いていたので、今でも耳の奥で聴こえるような気がします。


 家にあるのにちゃんと弾けないことがもどかしくて、わたしはピアノを習いに行きたいと思っていました。その願いが叶ったのは5歳の時です。音楽教室のグループレッスンに、週一回通いました。


 幼児科コースはグループレッスンで、先生は若くて優しい女の人でした。くりくりした先生の目、色白の指、ショートカットの髪に、光る金縁の眼鏡。色々なことを覚えています。


 わたしはのろまな子どもだったので、駆けっこも後片付けもいつもビリでしたが、音楽のことは、割と飲み込みが良かったと思っています。歌うこともピアノを弾くことも、楽しかった。


 その後より専門的なコースに進み、グループレッスンと個人レッスンの両方で、楽典、ソルフェージュ、アンサンブル、作曲、そしてピアノを4年間みっちり勉強しました。その頃になると、ピアノはずいぶん上達していました。人より少し上手に弾けることは自慢でしたが、練習はそんなに好きではなかったかも。そこが、わたしが一流にはなれなかったところだなぁ、と今は思います。


 ピアノのコンクールやセミナーを受ける時には、しんどいほど練習をしました。音楽の楽しさを本当の意味で見つけることができていなかったのと、小さな子どもが何時間も難曲を練習することや、寝ないで翌日までに自作の曲を暗譜することは、今冷静に考えると、健康的な音楽の学び方ではなかったようにも感じられます。


 その一方で、あのときのあの苦しみがあったから、技術的にはとても上達できたのも事実です。スパルタ式というか、スポ根というか、とにかく苦しみの先に勝利があるのだ、というような考え方。今は、そうではない学び方があるなら、子どもはもっと楽しい心で音楽を学ぶに越したことはないと思っています。


 小学校6年生の時に、我が家にグランドピアノが来ました。小さなピアノですが、とても綺麗な音がしました。大学に入るまでは1日2時間くらい練習したでしょうか。学校から帰って、おやつを食べたらピアノ、という生活に、高校に入ると声楽の練習が加わりました。


 途中何度か辞めたいと思ったピアノでしたが、40代になった今も、細く細くピアノと付き合う人生が続いています。いつか自分の家を持ったら、実家に置いてきた二台のピアノとまた一緒に暮らしたいと夢見ていますが、どうなることでしょう。


 


 


 

運命のねこ

 ブリーダーさんにお願いした二つの条件というのは、「生後半年になるまで、親猫と一緒に過ごさせてくれること」と、「去勢手術を受けさせてくれること」でした。あまり小さいうちに親から離すと可哀想、というのと、病気や余計なストレスがないように。


 ブリーダーさんは快く条件をのんでくださり、めでたく猫が我が家にやってくることになりました。


 猫が生後3ヶ月になった頃、ブリーダーさんが猫を連れてうちに下見に来ることになりました。長毛で大柄で鼻ぺちゃなその猫は、仔猫と呼ぶにはずいぶん貫禄があるように見えました。


 「抱っこしてみますか?」と言われて抱いた仔猫は、大きさの割に軽くてふわふわで、柔らかかった。抱っこされながら一生懸命に首をのけ反らせて、丸いカンロ飴みたいな目でわたしの顔を不思議そうに見つめていたのが、とても印象に残っています。その時着ていた自分のセーターの色まで、10年以上たった今でもはっきりと覚えているのがとても不思議。


 ミルクキャラメル色の背中と、クリームみたいに真っ白なお腹。わたしたちはその猫にシフォンという名前をつけました。


 シフォンシフォンシフォン!シフォンがうちに来てから亡くなるまでの9年間、毎日毎日何度も呼んだ、愛しい名前です。